種を蒔く人

子どもの読書のことや、公共図書館、学校図書館の役割について斜め方向から考えます。

学校の中心に図書室があったらコミュニケーションが生まれるぞ

 

www.kyobun.co.jp

 

神奈川県立教育センターの研究発表大会では、

  • 生徒の主体性を育む授業実現
  • 学校全体で取り組む学習支援の充実策
  • コミュニケーションを促す聴き方に関する研究

などについて研究発表があったそうです。

  

この中の

【コミュニケーションを促す聴き方に関する研究】

が気になったので考えてみました。

 

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 記事によると

 

コミュニケーション能力の育成が一層重要になる中で、ともすると生徒の「聴く」「傾聴」の意識が低くなる傾向を課題視。生徒が自分の聴き方を振り返りながら、「聴く力」を高めていく実践を探究した。

検証授業では、生徒に聴き手が反応しない交流を体験させ、各自のこれまでの聴く意識などを考えさせた。同時に、交流を深めるための良い聴き方の視点を挙げ、個々に研さんできるようにした。

実際の会話を通して聴く力のスキルを高めるために、2、3人の小グループによるロールプレーも実施。交流の中でそれぞれの話す、聴く役割を比較しながら、聴き方の見つめ直しや修正につなげた。

 

だそうです。

 

 

ロシアの昔話に見る親子のストーリー

 

ロシアの昔話に「ねことおんどり」というのがあります。

 

ロシアの昔話 (福音館文庫 昔話)

ロシアの昔話 (福音館文庫 昔話)

 

 

まずは、内容から

あるおばあさんは、

 

雌牛

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雄鶏

 

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と暮らしていました。

 

 

おばあさんは、

雌牛にも猫にも雄鶏にも大変よくしてあげていました。

 

 

猫も雄鶏も、楽しい暮らしをしていました。

 

 

それなのに…

 

 

猫はクリームを舐め、

 

雄鶏は畑へ入ってなんでもほじくりかえしました。

 

 

おばあさんは、

猫にお仕置きをくわせ、

雄鶏は畑から追い出しました。

 

 

猫と雄鶏は腹を立てました。

 

 

もうあんなおばあさんと暮らすのはごめんだ‼︎

 

 

そして二匹で、家出することにしました。

 

森に小屋を建てて一緒に暮らすことにしました。

 

 

まず猫が森へ行って、小屋を建てました。

 

雄鶏を迎えに行き、二匹だけの新生活スタートです!

 

翌朝、猫は、薪がないので薪をとりに行きました。

雄鶏は留守番です。

 

でも、キツネがやってきて、雄鶏はさらわれてしまいました。

 

雄鶏の悲鳴を聞きつけ猫はすっとんで来ました。

雄鶏はギリギリで助かりました。

 

猫はまた薪とりに行かなくてはなりません。

しかし、翌日もその翌日も、猫が薪とりに行っていると、

猫がどんなに雄鶏に言ってきかせておいても、

雄鶏はやっぱりキツネにさらわれます。

 

とうとう最後には、

猫は雄鶏を助けると、そのまま一目散、おばあさんの家へ帰りました。

 

 おばあさんはそれはそは喜びました。

 

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解説しよう(^o^)/

この猫と雄鶏はまるで兄弟みたいですね。

猫が兄で、雄鶏は弟。そして雄鶏は、かなり幼い弟みたいです。

おばあさんは、猫にはお仕置きをくわせますが、

雄鶏の方は畑から追い出すだけです。

まだ言っても聞かない年頃みたいです。

 

また、このストーリーはまるで、

ふたりの兄弟が母親に叱られプチ家出をしたものの、

兄は幼い弟に手を焼いて結局は家に戻るみたいな話と重なります。

猫は、おばあさんの気持ちが少しはわかったでしょうか(笑)

 

このように、この昔話は、

ストーリーの中では、猫がおばあさんの立場を擬似体験しますが、

ストーリー全体では、読者に親子関係を疑似体験させてくれます。

 

  

私は、子どもたちも日々の暮らしの中で、

これと似た体験をしているだろうと思います。

この猫のように子どもは、小さな弟妹を世話したとき、

親の立場を一時的に味わい、

親の大変さや親が子を思う気持ちを想像したりもするでしょう。

子どもは言葉にしないから、

大人はちっとも実感がないかもしれないけれど、

例えば留守番するときの兄や姉たちは、

弟や妹を守らなくちゃという責任感や、

頼る者が誰もいない心細さを肌で感じているだろうと思います。

子どもは子どもなりに考えて、

親が自分を守ってくれるように弟や妹を守らなくちゃと考えていると思います。

このことは、間接的ではあっても、親子の「心の交流」と言っていいと思います。

 

このような体験を通して、他人を思いやる気持ちは育つと思うのです。

 

 

子育てによって子ども時代を生き直す

 

子どもを育てていると、

自分自身の子ども時代を振り返る機会が多いです。

時々、すっかり忘れてしまっていたことも思い出されて、

その度に自分の子ども時代を生き直しているような感覚があります。

 

大人になっている自分は、

子どもだった故に言葉にできなかったもどかしい気持ちを、

ようやく言葉にすることができます。

すると、長い年月を経てやっと、

あの頃の気持ちをこの身に掴んだ気がすることがあります。

 

 

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また、親になった自分は、

あの時、親がどういう気持ちだったかをようやく理解します。

 

 

たまに…今更ながらな事柄に、

 

やっぱり許せん、このやろー( *`ω´)!!!

 

と、人知れず、怒り心頭しています(笑)

 

 

でも、親になってもなお不甲斐ない自分のことを省みれば、

あの時の自分の親だって、

今の自分と同じようにいろいろ悩んでいたんだろうと思えるのです。

 

親と言えども人間だから、しょうがないか〜

 

と。

 

 

これも、やっぱり時空を越えた親子の「心の交流」のように思うのです。

時を経て、ようやく相手の気持ちに自分の心が及んだというのかな。

そのことを、相手にわざわざ伝えなくても、

このことで他人への接し方が変化すると思うし、

他人を思いやる気持ちがワンランクアップする気がします。

 

 

勉強で手に入れられるのは知識だけ

 

子どものことで、何か問題視されるたびに、

なんでも学校教育で解決させようとする風潮がありませんか?

なんでも学校教育に頼るのは、もうやめにした方がいいと思います。

勉強で手に入れられるものは「知識」だけです。

そろそろ、その事実を認めて、

他のことで教育を頼るのは、諦めた方がいいと思います。

 

学校の「授業」にしてしまうと、

先生はそのことについて生徒を評価をしなくてはならないでしょ。

だから、「はなまるな答え」も用意しておかなくちゃならなくなるでしょ。

また、その授業内容について先生も評価されるようになるでしょ。

すると、テキストを作り、学習指導要領も揃えてられ、

その学習指導要領に従い授業を進めなくてはならなくなるでしょ。

「やらなくてはならない」 に埋め尽くされます。

あー、息苦しっ(ーー;)

 

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でも、コミュニケーション力の授業において

「はなまるな答え」を用意したところで…

想定通りということはまず起こらないのが常で、

それよりも何よりも、不味いことにならないかと心配です。

 

 

「はなまるな答え」で思い出すのは、

幼稚園や保育園でやってる

「ごめんね」→「いいよ」

の形だけの仲直りです。

 

あんな気持ちが伴わない「ごめん」が何になるのかな?

大人が手を添えて、

「ごめん」→「いいよ」

をクセ付けしたところで、

大人が手を添えなくなった将来、

同じことができるとでも思ってんのかな。

実際には、同じようにはならないで、

どうすることも出来なくて、心が折れちゃったりしていないかな。

または、「ごめん」て言ってくれないとか、「いいよ」を言ってくれないからって、

逆ギレして相手を滅多滅多に傷つけていないかな。

 

 

つまり私が言いたいのは、授業にしてしまうと、

「こうしなければならない」の形だけが先行して、

予想外な反応には対応できい人にしてしまわないかということです。

これでは、「コミュニケーション力」があるとは言えないですよね。

 

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授業にしてしまうと、 

幼稚園児や保育園児の

「ごめんね」→「いいよ」

のように、

「ごめんね」と言わなくてはならない。

「いいよ」と言わなければならない。

それから握手して仲直りしたことにしなくてはならない。

さらに、喧嘩をしてはならない。

「ならない」ばかりで、あー息苦しっ(ーー;)

子どもたちの学校を、またまた息苦しいものにしてしまうのですね。

 

自分の意見を言わないで嫌なことも嫌とも言えず、、

すべての感情を呑み込んで、

ひたすら大人が認める良い子を演じさせているのは、大人だと思います。

 

 

誰だって、

「ごめんね」と言いたくないときはありますよ。

 

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「いいよ」と許せないことだってありますって。

そんなすぐに許せるもんじゃない。怒っているんだから。

 

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だから、

 

やべー相手をきずつけちゃったー囧rz

 

とか、

 

もう!アッタマにきた(♯`∧´)

 

とか、

そういう時々に、ちゃんと立ち止まって、

自分の気持ちと相手の気持ちに向き合うことが大切だと思うのです。

そうやってじっくり考えることこそ、

「コミュニケーション力」を育てるために大事なことではないでしょうか。

 

大人たちが先に「はなまるな答え」を用意してしまって、

こうでなければならないように信じさせてしまっては、

子どもたちは、そうやって考え悩むチャンスを失ってしまうではありませんか。

 

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だから、

今の子どもに「コミュニケーション力」が足りないというなら、

あの悪しき習慣、

「ごめんね」→「いいよ」

を直ちに止めるべきだと私は思います。

「ごめんね」は心が動いてから言うべきです。

そうでないと、ちゃんと相手に伝わらないし…

 

「コミュニケーション力」は相手を傷つけたり、自分が傷ついたり、

悩んだり、悲しんだり、考えたり、困ったりしながら、

そういう経験を克服しながら身につけるものだと思うのです。

違いますか? 

 

 

 やっぱり読書でしょう

 

いえね、本にこだわらなくても、

ドラマでも映画でもいいのかもしれません。

でもここでは、

本を読むことが「聴く力」や「コミュニケーション力」を育てる

と、まず言っておいて、

力が及ばずとも、それがどうしてかをがんばって説明してみます。

 

 

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物語には、いろいろな人物が登場して、

それぞれの気持ちを言葉や態度で表現して見せてくれます。

登場人物には、

正直者もいれば、頭の足りない人もいれば、

賢い子どももいれば、欲張り爺さんもいて、

極悪人がいて、お金持ちがいて。。。キリがないのでこの辺で。

 

読者は、本を読むことで彼らの行動や言動や経験に、快や不快を感じ、

嬉しかったり楽しかったり、怒ったり、怯えたり、悲しんだりしますね。

そして、  

相手の気持ちを考えること、相手の言葉に耳を傾けること、

相手は時には本心とは裏腹なことも言うことなどを、

知ることができます。

 

読者は、本を読むことで、

主人公が経験することを疑似体験します。

体験を伴わない知識(勉強)は、なかなか身につかないものですが、

疑似体験といえど心を揺さぶらせたものは、

読者に、何かしらの爪痕を残すでしょう。

 

だから、本を読むことが相手の話を聴こうという姿勢を身につけさせ、

相手の気持ちを想像し、相手を思いやる気持ちを育むと思います。

 

相手の声に耳を傾ける、相手の気持ちを想像する、相手を思いやる気持ち、

これがコミュニケーションに必要な力ですよね。

「コミュニケーション力」を育てるというのは、

この力を手にすることではないのでしょうか。

 

 

図書館が学校の中心にあったらいいな

 

学校という環境は、先生が子どもたちを評価し、

また先生たちも評価される場所です。

そんななか、せめて図書室(学校図書館)は、

読書を楽しみ心を自由に解放できる場所であればいいなぁと思います。

昼休みの運動場と同じです。

昼休みに運動場で子どもたちが遊び、先生も混じって遊ぶとき、

お互いに勉強(評価)から解放され、

何からも束縛されないひとりの人としての心の交流があるでしょう。

相手にいつもとは違う面を見つけ、驚いたり、感心したり、

そうやって親しみが深まるものではないでしょうか。

これを、世間一般にはコミュニケーションと呼ぶはずです。

 

 

読み聞かせやおはなし(ストーリーテリング)を聴くときもそうです。

「おはなし」の前では大人も子どもも関係なく、

一緒に同じ時間とその物語を共有します。

先生と子どもたちが一緒に聴けば、

先生と子どもたちは、物語という異界を一緒に旅して帰ってくることができます。

 

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なんとお手軽なことでしょう。

たった十数分で、ババヤガーの小屋まで行って帰ってくることができるんですよ。

 

バーバ・ヤガー

バーバ・ヤガー

 

 

 

また、先生と子どもたちが、

自由気ままに、図書室に集うことがあるなら、

子どもたちは、ひょいとしたきっかけで、

先生が子どもの頃に読んだ本のことを知り、

その先生と、その本について語らうこともできます。

その子は、

『先生にも子どもだった頃があったんだなぁ』

とびっくりするんじゃないかな(笑)

 

 

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大人同士でもそうですが、

共通の本が好きというだけで、

相手のことをより親しく感じちゃいます。

同じものが好きって、ちょっと嬉しいですよね。

子どもにとって先生は特別な存在です。

だからその喜びはひとしおでしょう。

それに、子どもの頃読んだ本というのは、

どんな大人でも一瞬にして子ども時代にタイムスリップさせる力がありますよね。

こういう会話ができることは、先生にとっても幸せな時間になると思います。

 

ね、こういうのを、コミュニケーションというのではないですか?

 

学校の図書室が、そんな場所になったらいいなぁと願っています。

 

 

 

 結論

 

子どもたちは、

せっかく学校に通い、集団生活をしているというのに、

「コミュニケーション力」が足りない、育っていないって、どういうこと?!

「コミュニケーション力」が足りないんじゃなくて、

コミュニケーションをとる「時間」が足りないのではないのかなぁ

 

学校教育について研究する先生たちや専門家の人たちは、

学校の先生たちがあまりに忙しくて、

子どもたちとコミュニケーションができていないことの方に、

もっと目を向けてほしいです。

 

今、会社なんかもそうだけど、

組織化が進み管理体制を整える中で、

いろいろ提出すべき書類が増えているんだそうですね。

効率化するための管理体制が人の足を引っ張っているって、変な現象ですね。

 

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先生たちが、書類を処理する方にばかり忙しくさせられて、

肝心の子どもたちを見ないような事態になってはいないかな。

「学校は、勉強するためだけにあるのではない」

と、これは校長先生なんかが口を揃えて言うことですよね。

でも、現実は、なかなか勉強以外の余白が足りない。

そのうえ「コミュニケーション力」という授業を追加すれば、

またさらに余白の時間が減ってしまいます。

 

本気で「コミュニケーション力」について問題視するならば、

先生と子どもたちが気ままなコミュニケーションをとれる余白を作って、

その環境を整備すべきだと思います。

そのためには、先生たちの雑務を減らしてあげるのが一番ではないかと…。

子どもに関わる大人に必要なのは、

子どもたちとゆったりした気持ちで関われる心の余裕だと思います。