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種を蒔く人

子どもの読書のことや、公共図書館、学校図書館の役割について斜め方向から考えます。

公共図書館が個人文庫を超えられる日は一体いつ来るのかな

 個人文庫の盛り上がりのきっかけになった1冊の本

子どもの図書館 (1965年) (岩波新書)

子どもの図書館 (1965年) (岩波新書)

 

「私は高校生の時、この本を読んで、

いつか自分で文庫を開こうと思ったのよ」

私がお手伝いさせていただいている個人文庫の主宰者が、

年季の入った岩波新書を見せてくれました。

 

 

1965年に発刊されたこの本の影響を受け

個人文庫を開いた方は珍しくありません。

しかし実は、石井桃子さんがこの本で訴えているのは、

「もっと充実した公共図書館を」

のはずでした。

 なのに、この本を手に取った多くの人たちが、

自分で個人文庫を開こうという思いに至ったのは何故だろう?

 

 

それは、当時はまだ、

公共図書館が期待できるほどに充実していなかったせいと思います。

身近に公共図書館がなかったところも多かったのではないでしょうか。

また、もしかしたら、

公共図書館は、子どもが気軽に行って楽しむ場所でなかったのかもしれないですね。

 

牛乳瓶の底みたいな丸眼鏡の学生さんが難しい顔をして、

調べものをしたり、本を読んだり、勉強したり、

そんな感じ?

 

 

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今は、当時からすると、ずいぶん公共図書館の数が増えました。

そこには必ず「児童図書のコーナー」があります。

そして、お休みの日にはおはなし会や紙芝居などやって、

「幼きもの、かも〜ん!」

 

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と手招きしています。

 

 

日本に公共図書館が続々と建ち始めたのは、

1970年の『市民の図書館』の発行以降です。

一方で、大人が子どもの読書に関心を持ち始めたのは、

1960年、椋鳩十さんが主唱した『母と子の20分間読書』からです。

(ちなみに、『岩波少年文庫』の発刊は1950年です)

 

子どもの読書環境を考える大人にすれば、

「図書館の児童サービスをなんとか」と考えるよりも、

自宅を開放して個人文庫を開く方が手っ取り早かったのでしょうか。

公共図書館の整備の方が遅れてしまっているんですねー

 

 

 未だに、個人文庫頼みでいいのだろうか

 

 

今回、この本を読んで、私はやはり、

個人文庫を始めるよりも「公共図書館をなんとか」と痛感しました。

それだけ時代が進んだのだと思います。

 

2000年の「子どもの読書年」を境に、

子どもと読書を考える活動は一気に盛り上がりを見せました。

学校では、「読み聞かせボランティア」も盛んに行われるようになりました。

そして、当時この本を読んで個人文庫を始めて、

その後もずっと子どもに本を読み聞かせをしたり、

「おはなし」を語ってきた人びとが、今は、

これらの「読み聞かせボランティア」を支えてくれています。

このように、コツコツとではあるが、

民間では、子どもの読書を支える人材が育ったのです。

 

では、公共図書館はどうだろうか。

残念ながら公共図書館の「おはなし会」のほとんどは、

そのような市民グループのボランティア頼みとなっています。

 

 

これは行政が、司書の役割を「専門職」と考えずに、

単に図書の貸出・返却や受入業務をするのみの「一般事務員」と捉えたせいです。

そして、規制緩和もあって、

図書館に専門司書を置かなくてよくなったことと、

財政事情により図書館員を減らしたせいで、人材が育たなかった結果です。

つまり行政は、コスト(=人件費)しか問題にしてきませんでした。

正規に雇われた図書館員(公務員)はと言えば、

図書館に関心が有る無し関係なく、たまたま図書館に配属された人で、

残念なことに数年で異動になってしまいます。

これでは継続的に充実したサービスが提供できないばかりか、

いつまで経っても人材が育たないわけです。

 

そのために、おはなし会など経験がないと出来ないサービスは、

継続的に経験を積んだ市民グループに頼るしかないのです。

 

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このままでは、

まともに児童サービスができる図書館員は育たないのではないでしょうか。

それって多分、

子どもの読書環境にとって、あまり良いことにならないと思います。

 

市民グループは、豊富な経験と知識を持っていても、

図書館資料の専門知識までは持っていないし、それ以前にボランティアです。

 

図書館にどんな本を置こうか、図書館でどんなサービスを提供しようか、

という軸になる部分を支える専門の職員が居なくては、

児童サービスは成り立たないと思うのです。

 

 

 

まとめ

 

個人文庫活動の拡がりによって、

子どもと読書に対する意識の高い大人は増えました。

しかし、この人たちの経験や知識を社会的に保障して蓄積し、

次の世代を育てていくには、そろそろ公共図書館という行政機関が、

その芯のところを受け継ぎ、逆に支えなくてはいけない時期がきたと思います。

個人の活動には限界があります。

 

 

そのうえ、子どもに読書の楽しみを見つけさせるというのは、

そう容易いことではなさそうですよ。

そのことは、現在言われる「活字離れ」という背景が証明していますね。

それに実際には、

「子ども」よりも「大人」の活字離れの方が深刻じゃないですか。

本を読まない大人が、

どうして子どもに本の面白さを伝えることができるんでしょ。

 

 

「勉強しろと言っても勉強しやしない」

とぼやく親(私も含め)は珍しくありません。

それとまったく同じで、

ただ、「本を読め」と言って読むものではありません。

事実、

「うちの子、全然、本を読まなくて」

とぼやく親は多いです。

 

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そんな時私は、

『多分、親も読まないんだろうな』思っています。

本を読む習慣が保護者になければ、

家庭に読書が入る隙間はないし、そのような環境になるわけがありません。

世の中には、本よりも刺激があって面白いものはわんさかありますから。

 

そして、間違えてはいけないのは、

子どもを図書の時間(授業時間)に図書室に連れて行って、

1冊ずつ本を持たせ、 その時間だけ読書させることでは、

子どもが本を読むようにはならないです。逆に嫌いになるかもしれません。

 

 

しかし、あまり本を読まない子でも「おはなし」を喜ばない子どもはいないです。

与えるタイミングと薦める本がぴったり一致した時、

子どもは「本っておもしろい」と感じ、読書する喜びを知るのだと思います。

そのタイミングを図ることは、

子どもを観察して、子どもに本を読んでやって、

そういう経験からでないと、急に出来るものではないですよね。

また、子どもの本についてよく知らないでは出来るはずもないですよね。

そのノウハウを市民グループの個人にではなくて、

公共図書館という機関に蓄積しなくてはいけないと思うのです。

 

そうでないと日本の公共図書館は、

これからもずっと昭和60年代のまま眠ったままだろうと思います。

これでは誰かさんに「ガラパゴス化している」と言われても仕方がないですよ。

そして、「単なる公共の無料貸本屋」と勘違いされ、

古本屋なんかが参入してくるというハメになるのです。

 

 

石井桃子さんは、この本の中で既に、下のように仰ってます。

 

私設の文庫は、

文庫の心棒になっている人間が病気になるとか、そのほかも、ちょっとした身近の変化があれば、挫折してしまいます。また、うまくいった場合さえ、「繁昌」しすぎると、どうにも個人の手にはおえなくなります。

では、どうしたらいいかといえば、公共的な図書館(市や町や村で運営し、税金でまかなわれる図書館)の児童部を育ててゆくよりほかないと思います。

 

 

やはり公共図書館充実の方向性を示しているんですよ。

そろそろ、本腰入れませんと!!

 

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